この本について
書誌情報
タイトル | 暇と退屈の倫理学(新潮文庫) |
著者 | 國分功一郎 |
出版社 | 新潮社 |
発売日 | 2021年12月23日 |
ページ数 | 512 |
あらすじ
「暇」とは何か。人間はいつから「退屈」しているのだろうか。答えに辿り着けない人生の問いと対峙するとき、哲学は大きな助けとなる。著者の導きでスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーなど先人たちの叡智を読み解けば、知の樹海で思索する喜びを発見するだろう──現代の消費社会において気晴らしと退屈が抱える問題点を鋭く指摘したベストセラー、あとがきを加えて待望の文庫化。
章立ては下記の通り。
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論──ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第二章 暇と退屈の系譜学──人間はいつから退屈しているのか?
第三章 暇と退屈の経済史──なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第四章 暇と退屈の疎外論──贅沢とは何か?
第五章 暇と退屈の哲学──そもそも退屈とは何か?
第六章 暇と退屈の人間学──トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第七章 暇と退屈の倫理学──決断することは人間の証しか?
結論
付録 傷と運命──『暇と退屈の倫理学』増補新版によせて
感想
初めての哲学書としてもおすすめ
哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p.4
話題になっているのは知っていて読みたいなと思っていた頃に、ちょうど本屋の平台で積まれているのを見て、パッと手に取りました。若林正恭さんの「國分先生、まさか哲学書で涙するとは思いませんでした…」という帯コメントもインパクトがあって惹かれますね。読み終えた今となっても涙するポイントがどこだったのか私にはわからないままなのですが。
手に取ったは良いものの、読み始めるまでは不安でした。果たして理解しながら読めるのだろうかと。昔から哲学書に興味はあったのですが、思想家たちの難解な言い回しを理解できる気がせず、初心者はどこから入れば良いのかもわからず、二の足を踏み続けて月日が流れてしまいました。
結論から言うと、この本はわかりやすく書かれていたので、門外漢の私でも表面上の意味は理解しながら読み進めることができました。パスカルやハイデッガーといった思想家たちの言葉が随所で引用されていて、それだけで意味を理解するのはやはり難しかったです。原著にあたっても玉砕するだろうなという確信が持てます。その引用文に対して、このくらいわかるだろうと投げっ放しにするのではなく、都度丁寧な解説があったのでとても助かりました。また章が進んだタイミングなどで、そこまでの内容をまとめた上で改めて話が進められていくので、休み休み読んで記憶が飛んで付いていけなくなったらどうしよう、というのも杞憂でした。
他に私が哲学書に手を出せなかった理由としては、読みながら自分でもしっかりと考えなければならないイメージがあったからです。考えるのは得意ではありませんし、正直に言えばそこまで考えたくもありません。その一方で他人の考えは聞きたいという…。この本は、まさにそんな欲求通りの読み方ができました。もちろん自分で考える余地はそこら中にあります。とはいえ、自分で考えなくても問題なく読み通せたのです。お陰で哲学書に対して一線を引いてしまう感覚はかなり払拭されました。
「はじめに」では以下の通り書かれているので、私の読み方は邪道だとは思いますが。
本書は哲学の本であるが、哲学を勉強したことがない人でも、自分の疑問と向き合おう、自分で考えようという気持ちさえもっていれば、最後まできちんと読み通せる本として書かれている。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p.4
資本や消費の論理からの逃れられなさ
思えば、日頃から暇だな~退屈だな~と感じることはあっても、それを掘り下げようと考えたことなどありませんでした。私は一生思いつきもしなかったでしょう。それでも、「人間であるとは退屈に向き合って生きることを意味する(p.383)」と言えるほど誰しもに身近な概念なので、多くの人が興味深く読めるテーマではないかと思います。
私が特に面白く感じたのは、資本主義が発達した消費社会における考察の部分です。やはりその渦中にいる者として、ただでさえ身近なテーマがより一層リアルに感じられてわかりやすい話だからでしょう。
例えば「余暇は資本の外部ではない(p.138)」というところです。第一に、使用者は労働者をよく働かせるために余暇を適度に与えているのであって、それは思いやりではなく資本の論理に組み込んでいるだけである。第二に、仮にそうではない余暇(管理されない余暇)があったとしても、そこにレジャー産業が付け入って人々に作られた楽しみを与えるようになり、結局資本から逃れられない。今となっては労働者の労働力ではなく、「労働者の暇が搾取されている(p.29)」のです。
供給が需要に先行していて、人は自分が本当に欲しい物をわかっていない、といった話は私もどこかで聞いたことがあったので、ここで紹介した部分については既にわかっている人も多いかもしれません。ただ、こうして話を整理された上で搾取されているとまで言われると、自分への響き方が全く違うなと感じたのです。
更に消費を物ではなく記号や観念として考えると、労働、ひいては余暇も消費の対象になると述べられています。
だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p.178
なんだかとてもわかるような気がします。この消費行動をSNSが余計に助長しているのではないかと。
ここで、私も最近無意味にネットを眺めている時間が多いからもう少し減らしたいな、でもそこでできた時間で何かすることがあるだろうか、なんて思ったのですが、この「何かすることがあるだろうか」というものこそが消費社会に染まった人間の発想なのでしょうか。それとも「何かすること」に従って安寧を得たいという人間の性の発露によるものなのでしょうか。(「従うことは心地よいのだ。(中略)人は奴隷になりたがる。(p.346)」)
先に何も考えずに読んだと書きましたが、こうして振り返っていると自分でも考えるものですね。私はこういう効果を期待してブログを書いている節があります。
まとめ
第五章から七章までが哲学的な話で、ハイデッガーの退屈論を元に展開されていきます。結論にも繋がるメインの内容なのですが、かいつまんで紹介するといったことは私の能力では難しいので割愛します。結論部にも、「それら二つの結論は、本書を通読するという過程を経てはじめて意味をもつ。(p.393)」とあるので、ぜひ最初から最後まで通読してみてください。
章タイトルからもわかる通り、この本では暇と退屈について考えるために、経済学や社会学、生物学や病理学など、幅広い分野の情報が集められています。なので、次に自分はどういう方向に思索を深めていきたいのか、その道筋を辿るためのヒントも豊富にある本だなと思いました。私はやはり上で触れたように、経済学の方向でしょうかね。
一つ気になったのは、本の中ではネットの話が一切出てこなかったことです。(言葉としては出てきましたが。)ネットに繋がるスマホを常に所持している人間を想定すると、ハイデッガーの退屈論の話もまた違ってくるような気がします。私が次に読む時は、そこを意識しながら見ていきたいと思います。
人の生は確かに妥協を重ねる他ない。だが、時に人は妥協に抗おうとする。哲学はその際、重要な拠点となる。問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、「まぁ、いいか」から遠ざけるからである。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』p.4